「ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの」より

こんな記事を読んだ。

 

ひとり、都会のバス停で~彼女の死が問いかけるもの」 NHK事件記者取材note 追跡 記者のノートから 2021/4/30

 

昨年11月に、バス停で60代の女性が男に殴打され、亡くなった。この記事は、「その女性はなぜそんな目にあわなければならなかったのか」を追い求めた取材レポートである。

 

これを読んで、私もこの記者が感じただろう世の中の不条理、憤り、やり切れなさを感じた。

しかし同時に、この記者が事件を掘り起こして記事を書いたということに、一片の救いのような感動を覚えた。

 

表面的には、「ホームレスの女性が通り魔に殺された」という、翌日になれば世の中から忘れ去られてしまうような事件である。

しかしもちろん、彼女にも人生があった。

この記者は、言ってみれば「あかの他人」である彼女について、その人生に関わった人々の記憶を掘り起こし、分散したそれらの記憶を繋ぎ、他の人々の記憶に残り続けるような記事として提供した。

 

それは、世の中の不条理に対するせめてもの抵抗ではないだろうか。

そうしなければ、不条理ということすら、表面化せずに個人の内面の感情で終わってしまう。

 

「古老が一人亡くなることは、図書館がひとつ、なくなることである」(アフリカのことわざらしい)

古老に限らず、生まれてきた以上、誰もが「人生」というストーリーを持っている。

それを形として残すことが、生きたという事実に対する敬意だと思う。

自分でできるときは自分で、自分でできなかったときは他の人がそれをしていくことが、生きている者の務めなのだと思う。