【いちくり】映画評論家でも何でもない、いちクリスチャンの僕が映画を観て考えたこと

あなたは自由か~映画「マトリックス」より

The Matrix(1999年米国)

監督:アンディ・ウォシャウスキー/ラリー・ウォシャウスキー

出演:キアヌ・リーブス/ローレンス・フィッシュバーン/キャリー・アン・モス


<注:以下ではネタバレがあります>

 

 衝撃的な作品だ。仮想現実を扱った映画には、シュワちゃんの「トータル・リコール」やディカプリオの「インセプション」などいろいろあるが、「マトリックス」はその映像美、ストーリーの緻密さ、恐怖感など、かなりイケてる映画だと思う。

 

 この「現実」世界が、実はコンピュータに支配されている仮想空間だった、と知ったときのネオの恐怖はいかばかりだったことだろう。人間がコンピュータに「栽培」されている巨大空間は、実にショッキングな映像だ。仲間の一人は、この現実に耐えられずに仮想の「現実」に戻るために裏切る。その「ユダ」はステーキをほおばりながら、「この肉の味が、本当はないなんて・・・」と言う。「とって食べなさい。私の肉だ」というイエスの最後の晩餐をイメージしたかのようなシーンだ。

 

 生化学的には、あらゆる刺激は脳内の電気信号の変化によって知覚される。だから「現実」に相当する電気信号さえあれば、物理的には実在しなくても構わないわけだ。夢の中で痛いと思っているのと同じだ。そう考えると、ほんとに恐ろしくなる。いったい我々人間とは何なのだ? 考える葦? 我思う、ゆえに我あり?。

 

 人間は、自分が自由だと思っている。起きるか起きないか、コーヒーにするか紅茶にするか、休みにどこに行くか、この仕事を先にするか、この人と結婚するか。人は自分の意志を持ち、自分で決めて行動する。もしそれが阻害されれば理不尽だと感じる。人は不当に行動を強制されるべきではないし、今の日本人は人類の歴史の中では比較的自由を行使できる環境にあると言える。しかし、本当は僕たちは何かの奴隷なのだ。必ずしも悪い意味ではない。僕たちは、すべてのものから解き放たれて自由になることはできない。必ず何らかの価値観に従ってものごとを判断したり行動する。そういう意味で、その価値観の奴隷なのだ。僕たちには価値基準、判断基準というご主人様がいる。問題は、何に基準を置いて判断し行動しているかということ、つまり「何の奴隷か」ということだ。

 

 僕たちを、人間として貴び育もうとする意図がある価値観なのか、利己的な欲望に従って生きようとさせる価値観なのか。それは最終的には僕たちをどこに導くのか。

 

 聖書にはこう述べられている。

 

「あなたがたはこのことを知らないのですか。あなたがたが自分の身をささげて奴隷として服従すれば、その服従する相手の奴隷であって、あるいは罪の奴隷となって死に至り、あるいは(神への)従順の奴隷となって義に至るのです。」ローマ人への手紙6:16(「神への」は補足)

 

 この映画を通して聖書を考えるのは、あながち的外れではない。

 「トリニティ」は三位一体のこと、船の名「ネブカドネザル」は旧約聖書に出てくるバビロニアの王(その役割を考えるととても意味深)、そしてネオは救世主の具現化だ。

 

 自由を満喫していると思っている僕たち。実はそれは仮想現実かも知れない。巧妙に、自由であると思わせる価値観、罪の奴隷になっている。エゴ、自分中心という罪の奴隷に。僕たちにとってのネオは、誰だ。

 

 

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(2017-11-01)