かそけき糸に導かれ

~「ウクライナの発見」著者・小川万海子さん

小川万海子さん

文筆家

ヨーロッパ・アジア言語文化研究所上級研究員

 

「絵から音が聴こえるんです。花の声が、話が、草々のささめきが聴こえる。ヒレアザミが何かを訴え、雲が雄叫びをあげている。私は絵に音や匂いを求めるみたいです。ウクライナの土の匂い、ビートの収穫。力強く、黒い土・・」(小川さん)

 

 『ウクライナの発見 ポーランド文学・美術の十九世紀』を読んだとき、絵についての文章なのに、どこからか音が聴こえる感覚を覚えた。私自身は絵画や美術にはまったく疎いが、この表現力の源を知りたいと思い、お話を伺った。

 

※ 『ウクライナの発見 ポーランド文学・美術の十九世紀』(こちら

 小川万海子さんの2011年の著作。ウクライナを描いたポーランドの画家や詩人たちの生涯、またその作品を通して、19世紀から20世紀初頭のポーランド美術と文学を紹介している。

 ウクライナは現在は黒海の北岸に位置する旧ソ連の共和国の一つだが、本書で語られる「ウクライナ」はその国家ではなく、かつてはポーランドの一部として「母なるウクライナ」と呼ばれ、芸術家たちに「自由と夢物語の魅惑の地」とも評された土地のことである。

小川万海子さん



「バビエ・ラト」との出会い

―美術館にはよく行かれるんですか。

 

 そうですね、でも特に以前から美術に強い関心があったということはなく、美術館に行っても名画を見たと言うだけのためだった気がします。仕事でポーランドに赴任することになったときに、先輩職員からポーランド美術の画集をもらいました。それを見て、すごく良いなあと思ったんです。特に《バビエ・ラト》という絵を見たとき、衝撃を受けました。それで赴任していの一番にワルシャワ国立美術館に行きました。

 《バビエ・ラト》をはじめとするポーランド絵画が展示されていたのは、美術館で一番立派な部屋でした。そこに入ったときに、宝石箱を開けたような感動を覚えました。どの絵にも郷愁、懐かしさがあるのです。19世紀後半から、20世紀初頭の絵は特に。それ以来、仕事で辛いことがあったときや、ホームシックに悩んだときなど、何度も《バビエ・ラト》の前に立ったものです。

 

―なぜ《バビエ・ラト》に惹かれたのでしょうか。

 

《バビエ・ラト》はユゼフ・ヘウモンスキという画家の作品です。「バビエ・ラト」とはポーランド語で「小春日和」のことですが、同時に「小春日和に舞う蜘蛛の糸」を意味します。中国では五世紀に詩賦の中で、この蜘蛛の糸が「遊糸」という名で詠まれていました。「遊糸」の響きと字のイメージが《バビエ・ラト》にぴったりだと思い、この絵の日本語タイトルにしました。

 よく覚えているのですが、中学生のとき、国語の教科書に錦三郎さんの「飛行蜘蛛」という文章が載っていました。山形のある地方で見られる「雪迎え」という現象についての文章です。小春日和の青く澄んだ空に、蜘蛛の群れが、かそけき糸をきらめかせながら飛ぶ。そのあと雪が降り、冬になっていくから「雪迎え」。なんて幻想的なんだろうと感動するとともに、自然の神秘と、はかなげでありながら強靭な蜘蛛の意志のようなものに、当時の私は心打たれました。そんな、自分の心の裏側にしまわれていた感覚が、《バビエ・ラト》を見たときに甦ってきたんです。

 

―運命の再会ですね。

 

そうなんです。今振り返ると、外務省に入ったのもこの絵に出会うためだったと思いますし、この本を書けたのも、何かの導きだったのかなと思います。

 

―「ウクライナ」がポーランドの芸術家によって描かれるのはなぜですか。

 

 《バビエ・ラト》を描いたヘウモンスキはポーランド人ですが、絵はウクライナで描かれたものです。ポーランドはロシアなど周辺の大国に翻弄された、複雑で過酷な歴史を持つ国です。ヘウモンスキが生きた19世紀は、三国分割によってポーランド国家が地図上から消滅していた時代です。現在のウクライナ共和国の西部は、かつてポーランドの東部国境地帯でした。ヘウモンスキら当時のポーランド人たちは、そんなウクライナに独特の郷愁を感じたのです。多くの画家や詩人たちが、「自由と夢物語の魅惑の地」「夢の地」「おとぎ話から抜け出したよう」と絶賛しています。このウクライナという空間を、彼らの造形や言葉からすくい取ったイメージによって、立体的に読み解いてみようと思ったのが「ウクライナの発見」です。

 

ワレサ議長に惹かれて

―ポーランドにはお仕事で行ったということですが。

 

 はい。私は大学卒業後、企業に勤めましたが、何か違うなと思って辞めて、外務省の専門職試験を受けました。日本と海外の架け橋になりたい、なんていう淡い夢を持っていたんですね。外務省では専門語をもつことになるのですが、私はポーランド語になりました。

 

―なぜポーランド語に?

 

  入省前に役所側から「あなたの専門語はポーランド語」と言い渡されたのですが、ポーランド語は私の第3希望でした。子供の頃ピアノを習っていたので、ショパンの母国への憧れがあったことと、私の中学生時代は、世界中がワレサ率いる「連帯」による民主化の激しいうねりに注目していたときで、私も興奮して推移を見守っていました。そのときからポーランドは、一つの炎として私の中に存在していたように思います。

 

―中学生でワレサ議長に惹かれたというのはすごいですね。

 

 何なんでしょうね。正義感が強かったのかな。当時すごい熱気だったので、夢中でテレビを見ていました。これも不思議なつながりです。見えない糸に導かれていたのかなと思います。

 

ポーランド語はどのように習得したのですか。

 

 入省すると約2ヵ月間マンツーマンで集中研修を受けます。その後、実務に入るので、仕事をしながら週1回のレッスン。その翌年から現地で語学研修なので、ポーランドの古都クラクフに2年間滞在しました。

文章は職場で鍛えられた

―『ウクライナの発見』では、日本の文献も豊富に引用されています。相当な読書量があるのではありませんか。

 

 小学生の頃から読書感想文を書くのは好きだったのですが、読書量は少ないです。どうしてもっと読まなかったのかと後悔しています。

 

―でも、語彙も実に豊富ですよね。

 

 自然に身体の中から出てくる感じはあります。外務省での仕事は、文書を書くことが基本です。来客や会議の際には、話の内容をすべて文書に残します。録音はせずひたすらメモを取って、それを文書に起こします。本省と在外公館とのやりとりなど正式には全て文書で行いますが、決裁段階で、文書案は、「てにをは」を含め真っ赤に修正されて返ってくる。外務省では10年勤務しましたが、そこで書くことを鍛えられたと感謝しています。外国語を使うと言っても、やはり基本は日本語能力だなと思います。

 

かそけき糸に導かれ~著書で伝えたかったもの

―著書の表紙に《バビエ・ラト》(遊糸)を選んだのはなぜですか。

 

 「野性」はウクライナという土地が持つ大きな個性ですが、この絵はそんな自由なウクライナへの憧れや夢を体現している絵だからです。空と大地の無辺の広がりの中、牛飼いの娘が土に汚れた素足を投げ出して寝転び、娘の身体から“あくがれいづるもの”のような蜘蛛の糸を手にする姿は、何にも縛られない自由の象徴であり、「自由と夢物語の魅惑の地」を体現していると思います。

 

―中学生の時の文章との出会いも大きかったのでは。

 

 そうですね。実は、『ウクライナの発見』で《バビエ・ラト》について論じるのにあたって、改めて錦三郎さんの『飛行蜘蛛』を取り寄せたのですが、本を開いて、思わず「あっ」と叫んでしまいました。ヘウモンスキの《バビエ・ラト》が掲載されていたからです。ワルシャワ大学の教授から錦氏に送られた写真だということでした。

 

―それは、驚いたでしょうね。

 

 私と、ウクライナやポーランドとの繋がりが、それこそ銀色に光る一筋の「かそけき糸」に導かれてきたのだという厳粛な思いがしました。

 

―小川さんが著書を通して伝えたかったものは、何でしょうか。

 

 「ものいう自然」です。画家たちが絵にした、詩人たちがうたった、自然から受け取る言葉を伝えたいのです。自然は全ての基本ですし、生命の源であり、奇跡のような美を感じます。私たちは自然に生かさせてもらっているのです。

 

―大自然に触れた思い出などがあるのでしょうか。

 

 何か特別な大自然ということではなくて、幼い頃から、身の回りの何気ない木々や草花、季節の移り変わりの風情、空の景色が大好きでした。そうしたものへの感受性を失いたくないのです。庭の木々に光が当たってステンドグラスみたいにきれいだなとか、セミの幼虫が地上に出てくる穴や、抜け殻を見てセミの強さに心打たれたりする、そういう感動を大切にして、積み重ねていきたいと思っています。自然が話しかけてくる言葉を、ちゃんと受け取れるようになりたいですね。

(写真はイメージです)

無駄なことは何もない

―現在所属されているヨーロッパ・アジア言語文化研究所のブログで、ポーランド美術を紹介する記事も書かれていますね。

 

 はい、日本では未知の世界であるポーランド美術、特に19世紀から20世紀初頭にかけての絵画の物語を伝えるためにこれからも続けていきたいと思っていますが、今は全く別の分野のことに取り組んでいます。

 

―それは?

 

 縁あって知り合った方の体験記を書いています。海軍特別年少兵として15歳で出征し、太平洋戦争を戦った90歳の方です。

 

―その方のどんな体験を書かれるのですか。

 

 海軍特別年少兵は、初めは海軍の中堅幹部養成のために採用されましたが、戦局の悪化によって、苛烈極める最前線に次々と送られました。その中の一人だった方が、どのように戦場の修羅場を生きぬいたのか。そこには、「必ず生きて帰ってきなさい」と送り出したお母さまの言葉や、子供の頃に自然の中で遊んで、感性やひらめき、対応力を鍛えられたという体験があります。その生きる力を、若い人たちや、生きにくいと思っている人たちに届けたいと思っています。

 

―最後に、「本を出す」というのは、どういう感覚ですか。

 

 自分の書いたものが本になるというのは、やはり何よりの喜びです。ただ同時に、一言一句、すべてに責任を負う怖さがあります。特に校正をやっているときにそう思いました。文字になって残る怖さ。出版社の社長さんにそれをお話したら、「その気持ちは絶対に忘れてはいけない」と言われました。今度は自分ではない他の方のことを書くので、尚更です。でも今、これだけはどうしても書きたいという思いがあります。何事にもタイミングがあります。不思議な巡り合わせ、天の配材というものが。何でも無駄なことはない、必ず何かにつながってくると思います。

 

<取材を終えて>

著書を読んだ印象通り、小川さんは言葉を大切にする人だった。「話すのは苦手」とは本人談だが、その紡ぎだす言葉は、「ものいう自然」の声、絵画に描かれた音に耳を傾け続けてきたことで生まれていた。語り尽くせぬ思いの一端を拙記事にさせていただき、感謝とともに、書くことへの畏れも改めて感じた。

 

小川万海子さん略歴 Mamiko Ogawa

 

東京生まれ。

1989年慶応義塾大学文学部卒業。

2008年東京外国語大学大学院地域文化研究科博士前期課程修了(文学修士)。

1994~2004年外務省勤務。

2011年藤原書店より「ウクライナの発見 ポーランド文学・美術の十九世紀」上梓。

共訳に『珠玉のポーランド絵画』(創元社、2014年)。

2014~2016年国立市の嘱託職員として平和行政を担当、原爆体験の伝承者育成を手がける。

2016年~ヨーロッパ・アジア言語文化研究所上級研究員。

 

Special Thanks : Kanako Tanno

(2017-10-20 岡崎道成)