2015年9月7日、筆者のスマホにブログへのコメント通知が届いた。
「告知で恐縮です。2015/10/29 スザンヌ・チアーニ ピアノソロコンサート開催します。日比谷松尾ホール 19:00~」
なに・・? 念のため、ホールのサイトでイベントスケジュールを確認。確かに入っている。心拍数が一気に跳ね上がる。まさか、本当なのか。しかしなぜ今スザンヌが? 投稿者は「kenta fujimoto」。一体、何者・・?
シンセ界のパイオニア、スザンヌ・チアーニの日本初公演を実現させた男の執念を聞いた。
(取材 2017年10月)
<スザンヌ・チアーニ Suzanne Ciani >
アメリカの女性作曲家、演奏家。シンセサイザー黎明期の先駆者で、有名企業のCM曲やサウンドロゴを手掛ける。1982年「Seven Waves」で日本からアルバムデビュー。その後シンセやアコースティックなど15作のアルバムを発表、5度のグラミー賞ノミネート。2017年、アメリカでスザンヌの活躍を描いたドキュメンタリー映画「A Life In Waves」が制作された。今なお精力的に演奏活動を行っており、Diva of the Diode と呼ばれる。
―今回のピアノコンサート開催の経緯を教えてください。
僕は音楽関係者でも何でもありません。普通の会社員で、スザンヌの一ファンです。2014年に、スザンヌのドキュメンタリー映画を作るためのクラウド・ファウンディングがアメリカで立ち上がりました。寄付した金額に応じて特典があって、4000ドル以上ではプライベートコンサートをしてくれるとありました。「パブリック(公開)でもいいか」と問い合わせたら「OK」とのことだったので、4000ドル寄付しました。
―4000ドルでアメリカからコンサートに来てくれると?
いや、旅費や宿泊費は別途です。でも、どうしても来てほしかったので、ファンの知人にも出資してもらうお願いをして、実現にこぎつけました。
※4000ドル寄付者の特典(クラウド・ファウンディングサイトより)
「スザンヌが、あなたや親しい人のために、お好きな場所でプライベートコンサートをします。結婚式、誕生日、パーティーなどにどうぞ(でも旅費と宿泊費は負担してください)」
このクラウド・ファンディングは、$38,500 の目標を上回る $45,627 を集めて終了した。4000ドル以上でプライベートコンサート権を得たのは、藤本さんを含む2名のみである。
―コンサートをした日比谷松尾ホールは、小じんまりとしたホールでしたね。
88席の小さなホールです。娘が習っているピアノの先生に相談したら、いいピアノがあるホールだと紹介してくれました。規模もちょうどよかったので、ここを予約しました。コンサート半年前の2015年2月のことです。
―ミュージシャン来日となると、通常はプロモーターが絡むと思うのですが。
今回はプライベートなきっかけだったので、僕が動かないと何も始まりません。最初に神戸のFM局に連絡しましたが、なにせ古すぎて当時の人もいない。東京のラジオ局も回りましたが、広告費を出せば番組で宣伝すると言われて、断念しました。
―デビューアルバムのレコード会社や楽器メーカーは?
軒並み断られました。とにかくスザンヌを知っている人がいない。仕方ないのでチケットもチラシも、仕事の合間に自分でデザインして、注文して作りました。
―チケットの販売はどのように?
知り合いや、あちこちのお店や図書館などにチラシを置いてもらって、チケットはヤフオクにも出しました。それから「スザンヌ・チアーニ」でネット検索して、ヒットしたブログに片っ端から告知しました。それでも20件くらいでしたね。
(この検索でヒットしたブログの一つが、筆者の記事であった)
―スザンヌのアルバムデビューが日本からだったのは知っていたのですか。
いえ、アメリカが先だと思っていました。だって、ほんとにみなさんスザンヌを知らない。終わった後で知って「10万円出しても行きたかった」という人もいましたけど、ほんとに限られている。とにかく知名度のなさに泣きました。なんとか席が埋まって良かったです。
2015年、コンサート会場の松尾ホールにて
リハーサル中
―スザンヌの音楽に触れたきっかけは。
大学が神戸だったんです。Kiss-FM という神戸のFM局が、1990年代に夜中の番組で時報代わりにスザンヌの曲を流していました。1時間ごとに、まるまる1曲。だから神戸の人はみんな(その曲を)知っていると思います。毎晩それを聴いていて、すっかり気に入って。ラジオ局に問い合わせて、アーチスト名と “Drifting” という曲名を知りました。出資してくれた知人も、それを聴いてファンになった一人です。
Kiss-FMで毎夜、時報代わりに流れた "Drifting" (Official)
― “Drifting” にはどういう印象を持ったのですか。
ゆりかごですね。シンセサイザーの音色とメロディが心地よくて、寝るのに最適です。ほんとに、海の上のゆりかご。でもそのうち、曲を聴きたくて「もう1時間起きてよう」って。大学生で、暇でしたから(笑)
―それでCDを買い始めたと。
いえ、CDを買いに行ったら、日本盤のCDは既に廃盤になっていました。それで廃盤専門のCD屋さんに行きました。”Piano Two” という、スザンヌの曲も入っているピアノのコンピレーションアルバムはありましたけど、やっぱりシンセが聴きたい。京都のタワーレコードなら売ってると聞いて、そこにあったスザンヌのCDを全部買いました。1994年、大学4年生のときです。最新アルバムの “Dream Suite” が、レーベルから独立した最初のCDでした。独立の経緯と、事務所の住所が書いてありました。
―翌年就職、という年ですね。
ところが、1995年1月に阪神淡路の震災が起きました。自分のいたアパートは全壊です。避難所に1日いて、バイクで滋賀の実家に帰りました。そうしたら、普通に生活をしている。神戸は食うや食わずなのにとショックでした。でも実家にいてもやることがない。テレビは震災の映像ばかりで、精神的にきつくなってきます。大学の試験もなくなって動揺していましたし、何もできずストレスも溜まっていました。1ヶ月くらいしてからボランティアに行きましたが、もうある程度落ち着いていて、ボランティア同士の人間関係で揉めていたりして、1週間で実家に戻ってしまいました。そうすると本当にすることがないので、海外旅行でもしようと。行き先をアメリカにして、計画の中にサンフランシスコも入れました。
―そこでスザンヌに会ったのですか。
それが、ジャケットに書いてあった事務所の住所はメールボックス(私書箱)だったんです。仕方ないので、それに手紙を入れました。切手も貼っていないので直接投函だとわかったようで、「電話して」って実家に返事をくれたらしいんですけど、僕はそのときもうフロリダだったし、英語で喋る自信もなかったので、電話もしませんでした。
―ではそのときは会えず仕舞いで?
そうです。その後ネットでファンクラブに入って、会員報のようなものが来るようになりました。その年の12月に、レコード会社か何かの主催でツアーをやるという情報がありました。開催地の中に、ハワイのBordersというレコード店があったんです。
―まさか、そこに行ったんですか?
行きました。それでやっと会えて、CDにサインをもらうときに言葉を交わしました。手紙のことも覚えていてくれて、「あなたに会うために来ました」と言ったらすごく驚いていました。
―実際に会ってみてどんな印象でしたか。
美人でびっくり。当時40歳くらいのはずです。旦那さんともラブラブで。(注:その後離婚している)
ーでは今回はそのとき以来の再会ですか。
いえ、その後2003年に、カリフォルニアであったコンサートにも行きました。またすごく驚いてくれて、そこで買ったピアノの楽譜に「私の夢は日本でコンサートすること」と書いてくれました。そのときは、こんなに素晴らしいアーチストなんだから、日本でも何かしらコンサートをやるだろうと思っていたんですよ。神戸のラジオ局が招聘するとか。でも日本では思っていたより知られていないし、コンサートなんて気配も全然なかった。そうしているうちに、今回のクラウド・ファウンディングの話を知りました。
1995年、ハワイにて
2003年、カリフォルニアにて
CDジャケットに記されたサイン「私の夢は日本に行くこと」
デビュー以来初来日となるスザンヌのコンサートを独力で企画した藤本さん。その行動力の源は何だったのだろうか。話は続く。
―空港での出迎えは、さぞ感激したでしょう。
いや、それより失敗できないというプレッシャーがありました。通訳もいないし、自分の英語もおぼつかない。成田空港で、10年前に買ったあの楽譜を掲げて待ちました。でもなかなか出てこない。そしたら大分経って、車椅子で現れた。テニスをしていて足を挫いたらしい。それを知ったときは、かなりショックでした。コンサート大丈夫かと。それに、移動も制限されると、プランを全部見直さないといけない。結局ケガは大したことはなかったんですが、大事をとったらしいです。「車椅子に乗ってみたかった」なんて言ってました(笑)
―英語は得意なのでは。
全然。ビジネス英語のかじりだけ。コンサートのときも、通訳したほうがいいかとも思ったんですけど、間違ったら大変なのでやりませんでした。
―スザンヌも、コンサートではあまり喋っていませんでした。
あれは、途中でやめちゃったらしいんです。日本人は反応がおとなしいので、理解できてないと思っちゃった。僕自身は、事前にネットにあった音声をひたすら聞いて、彼女の英語に耳を慣らしていたんです。でも実際、成田空港から芝のホテルまでの移動で話が続かなくて、結構辛かった。緊張もしていたし、変なトラブルに巻き込まれないようにと思って、僕自身は全然楽しめなかったというのが正直なところです。
―スザンヌの日本での様子を知りたいです。
僕がお世話したのは東京の4泊、その後、京都のほうへ行ったようです。来日した翌日に、僕の職場が入っているビルのフロアでミニコンサート、3日目に松尾ホールのコンサート、4日目と5日目は観光案内です。秋葉原のヨドバシカメラは無茶苦茶喜んで、ウォシュレットに興味を示しました。「アメリカに付けられないの?」と尋ねて、「水の質が違うから」と店員さんに言われていました。マッサージチェアも面白がっていましたね。あとは合羽橋、浅草寺。ほんとに、間を持たせるのが大変でした。
―食事はどんなものを。
寿司、天ぷら、うどん、ラーメン。朝食以外の全食事を付き添いました。天寿というお酒をすごく気に入っていました。コーヒー、紅茶は摂らず、緑茶のみと言われて苦労しましたね。
―振り返ってみて、藤本さんにとってこのコンサートは何でしたか。
ひとつの腕試し。それをクリアして自信がつきました。職場のビルのミニコンサートも、ビルのオーナーに掛け合ったのですが、うんと言ってもらうのに猛烈なやり取りがありました。会社の名前も使って信用を得て、やってもらった。結果的には成功して、オーナーもすごく喜んでくれました。それまで管理会社が主催するコンサートしかやっていなかったのに、それからは持ち込み企画が増えたようです。
―その頑張りのエネルギーはどこから来ているんでしょう。
以前、職場の同僚がお笑い芸人を目指して養成所に通っているときに、ネタ見せ会に毎回行って、意見を言ったりしていたんです。その彼が売れちゃった。スザンヌとか彼とか頑張っているから、俺も頑張らなくちゃ、というひとつのステップがそのコンサートでした。今回のことで、彼にちょっと自慢できるかも、という感じはありますね。
―一生の思い出になったという感じですか。
正直、そのとき何をしたのか、記憶が飛んでるんです。コンサートをビデオに残しておいてよかったです。こうして話していて、やっといろいろ思い出しているところです。
―ひとつ夢が叶いました。次はどうしましょう。
娘をアメリカに行かせたいですね。娘がコンサートの後にプライベートレッスンしてもらって、「あなたは指が長いから、いいピアニストになる」と言われていました。僕も “Drifting” は弾けます。コンサートの後、スザンヌの前でちょっと弾かせてもらいました。僕はそれで満足です。
(了)
「次は日本で!」と書かれたピアノ譜。来日の出迎えではこれを掲げた
虎ノ門でのミニコンサート
電器店のマッサージチェアでご満悦
藤本健太 Kenta Fujimoto
1972年、滋賀県生まれ。現在は東京でIT関連企業に勤務。
<聞き手より>
自身だけでなく、当のスザンヌの夢をも叶えた藤本さん。お笑いで成功した元同僚の姿を見ながら、いつか俺もと踏ん張っていたのだろう。チャンスを自らたぐり寄せて形にした藤本さんに、心から敬意を表したい。
ちなみに藤本さんの元同僚とは、コンサートの前年2014年にブレイクした厚切りジェイソンさんである。
藤本さんが立ち上げたFacebookファンページはこちら(公開)。コンサートの動画もアップされている。