最近、「神のみこころ」に関する記事を読みました。
「神のみこころ」という言葉を濫用することへの危惧が書かれています。
自分の経験からも割と納得できるんですが、ただ、この文章はいまいち「それで?」という結論部分がわかりにくい。
結局、キリスト者は選択に迷ったとき、どうしたらいいのだろう。
前にも書きましたが、人生は何かを決断したり、選択を迫られることの連続です。
中でも、 進学、就職、結婚、転職など、人生の転機になるような、いわば自分に選択権のある大きな決断を前にすると、信仰を持つ者はこう考えます。
「神のみこころはなんだろう。」
「あなたの道を主にゆだねよ。」―詩篇37篇5節
高校生の自分に深く刺さった聖書のことばでした。
だから、選択に迷ったときは「主よ、道を示してください」と祈りました。
それは決して悪いことではないでしょうし、むしろ望ましい「信仰的な態度」だと今でも信じています。
ただ、その使い方を間違うことも往々にしてあると思うのです。
若い頃、あることを決めて、それを周りのクリスチャンに言いました。
「これが神様のみこころだと思います。」
そうしたら教会の老齢の信仰者に言われました。
「それはあなたのみこころでしょう」
強烈なショックとともに、でも図星でした。
自分の思いを「神のみこころ」ということで権威付けしようとしていたのです。
自分を納得させるために。
そして周りから反論されないために。
夢で神様が「この道を行け」と告げてくれるのを何度望んだことか。
道を示してくれる箇所を求めてどれだけ聖書を繰ったことか。
神様が助言者を与えてくれるのをどれだけ願ったことか。
そこにある落とし穴は、「自分の望む方を支持してもらうために」です。
でも今思うのは、「私はこうしたい」という思いを表明することが、必ずしも悪いことではないのでは、ということです。
信仰者はとかく、自分の思いを通すことに慎重になります。
神よりも自分の気持ちを優先するかのように思えるからです。
本当は私のわがままではないか。自分勝手なだけではないか。
これが、「神のみこころ」を求める背景になっていると思うのです。
それは間違ってはいないでしょう。
聖書の中には、自分勝手な思いによって神に従わなかった人がたくさん出てきます。
たとえば先日創作で出したヨナとか。
神のみこころを求める、それは間違いなく聖書の教えるところです。
じゃあ、その「みこころ」ってどうやって示されるの?というのが、悩ましい問題となります。
僕は今は、こう思っています。
自分の中に生じた思いを、自分と向き合って、じっくり考えるのです。
天災のように突然降って湧いたものでないなら、その思いに至る状況や動機が必ずあるからです。
聖書の教えで明らかな事柄なら、従うか否かという問題で、迷いではない。
迷うのは、その選択自体が直接信仰とは関係ない場合です。
どの進路にするか。
申し出を受けるか。
転職するか。
これを実行するか。
新約聖書でパウロが著した手紙には、神のみこころに関する多くの記述があります。
それらを読めば、その意図が「イエスの福音を宣べ伝えること」だとわかるでしょう。
みこころを求める目的は、福音を保ち、前進させるためです。
はっきり言ってしまえば、それは僕たちが遭遇する「こっちにするか、あっちにするか」といった日常的な選択のためではない。
パウロは福音伝道に、文字通り命をかけていました。
パウロの「神のみこころ」という言葉は、そういう中で発せられている、神の働きを前進させるための言葉です。
自分に宿った思いは神のみこころによるーそう捉えられる箇所もあります。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。」ーピリピ2章13節
でもこれさえも、その目的を見るなら、
「(それは)いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。」ー同15節
ということなのです。
もちろん、すべてのことは神の支配と許しの中で行われることだと僕は信じています。
でも自分の中に湧いた思い、意志というものは、信仰を逸らしたり福音を妨げるようなことでない限り、それ自体は大事にするべきだと思います。
自分の感情を押し殺して無理をする必要はない。
自分がやるべきことなら、それは自分でわかるはずだから。
やるべきでないことなら、それも自分でわかるはずだから。
神の前で自分の正直な気持ちに向き合い、「私はこうしたい」と言えばよい。
そうすることで、考えが前に進むでしょう。
「神のみこころ」を自分のために利用することを何度してきただろう。
ただ「決めたのは自分です」というのが怖かったのだ。
今はそんな風に思っています。
(2018-01-28 15:50更新)
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