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ブックレビュー「『集団主義』という錯覚」

前回邦画についてのブログ記事を書いたのですが、一方で、日本人論についての衝撃的な本に出合いました。

高野陽太郎著「『集団主義』という錯覚」新曜社(2008年発行)

です。

 

「日本人が集団主義」という、広く受け入れられている日本人論は事実ではない、というのです。

 え~、でも日本人は個性重視というより、「和をもって尊し」とする集団重視の文化だし・・。第一、「菊と刀」(ベネディクト)という日本人論の名著があるじゃないか・・と思っていたら、本書は正にその「菊と刀」を一刀両断にしているのです。

 

「近年、集団主義・個人主義についての実証的な国際比較研究がさかんにおこなわれるようになってきたのだが、そうした研究の結果をしらべてみると、『日本人は集団主義的、アメリカ人は個人主義的』という通説はまったく支持されていないことが明らかになったのである。(中略)もしそうだとすれば、事実に反する説が『通説』として流布するようになったのは、いったい何故なのだろうか?」(「はじめに」より)

 

 

この問いかけから、本文ではまず「日本人論としての集団主義とはどのようなものか」を紹介します。「日本人=集団主義」を掲げているとして挙げられているのは、

 

・ベネディクト「菊と刀
・土居健郎「『甘え』の構造
・ヴォ―ゲル「ジャパンアズナンバーワン
・中根千枝「タテ社会の人間関係

 

など、誰でも聞いたことがあると思われる日本人論の代表格の著作。
また映画「ライジング・サン」の中のセリフ「ケイレツ(系列)」、「日本株式会社」説、「いじめは日本の集団主義のあらわれ」説、「タテ社会」「村八分」「単一社会」「出る杭は打たれる」といった言葉です。

著者は次に、実際のデータが、「日本人=集団主義」「アメリカ人=個人主義」という説を支持しないばかりか、まったく逆の結果を示している、と述べます。例として、「和の国」のはずの日本において、

・労働争議件数は「労働争議が多い」オーストラリアよりもずっと多い
・暴力行為を伴うデモは「革命の国」フランスよりも倍以上
・江戸時代の農民一揆は1600件超え
・第二次大戦前の小作争議の数は年平均3200件
・学校紛擾

また年功序列、終身雇用が特徴とされる労働環境においても、

・年齢別賃金の傾向は日米で同じ
・勤続年数15年以上の就業者の割合はアメリカの方が高い

また数々の心理学的な実験を通して、「日本人とアメリカ人のあいだには、どちらが集団主義、個人主義的というようなちがいはない」ことを示しています。

また通説とは逆に、日本人が個人主義的だったり、アメリカ人が集団主義的だったりするエピソードにも事欠かないことを示します。
そして、「それにも関わらず、なぜ『日本人は集団主義』という説がこれほどまでに支持を得ているのか」を分析します。

・ヨーロッパで誕生した個人主義イデオロギーを背景として、欧米人、特にアメリカ人は他の社会を集団主義と見なす傾向にあり、日本人に対する情報不足もあいまって、この傾向が強化されたこと。
・軍国主義の時代には、多くの日本人がじっさいに、誰の目にも明らかな集団主義的行動をとっていたこと。
・日本人の集団主義的な行動が、日本人に特有な集団主義的な文化・国民性のあらわれと解釈されたこと。
・この解釈にもとづいて、ベネディクトが「菊と刀」を発表したこと。
・この著作が、「思考バイアス」の影響によって広く受け入れられ、強い信憑性を持つ「通説」になったこと。
・いったん受け入れられたイメージから派生したその後の日本人集団主義の諸説は「通説の権威」に支えられてたやすく受け入れられ、それがまた通説を強化するといった循環を産み出したこと。

ここで「思考バイアス」とは次のようなものだそうです。

・対応バイアス:他人の行動の原因を推測するときに、状況の影響よりも人間の内部特性が原因と考える傾向
・外集団等質性効果:情報が少ない中では、個々の日本人の個性が区別できず「マス」としてしか認識されなかった
・確証バイアス:いったん成立した通説には、それに合う証拠ばかりに目が行くようになる傾向
・可用性バイアス:ある説の検討の際に、その説と一致する事柄ばかりが思い出されて「その説は正しい」と思いやすい傾向
・信念の持続:はじめに受け入れた通説は、その根拠がなくなっても間違いだと受け入れない傾向

「日本人=集団主義」説を広める最大の原動力になったのが「菊と刀」であり、これは太平洋戦争中の日本の軍国主義を念頭に日本人文化論・国民性を展開しています。著者は、
軍国主義の時代には日本があきらかに集団主義的行動をとっていたことを認めつつ、それは置かれた状況によるのであって、日本人の国民性によるものではないとします。

その証拠に、アメリカでも、共産主義の脅威にさらされた冷戦時代は「赤狩り」が行われたし、同時多発テロ発生後は「反テロ愛国法」が成立している。アメリカにも「いじめ」はあるし、政府に反対する人を「非国民」と非難する。
集団主義は、外部の脅威にさらされた結果起こる「人類共通の反応」なので、昭和の軍国主義をもって「日本人が集団主義」という根拠にはならない、というのが結論です。

最後に著者は、人が行動を決める際、「文化差」や「国民性」といったものより「個人差」「状況」のほうが影響は大きいとし、「文化差」を過大視することに疑問を投げかけています。

「『文化差』の過大視は、集団間に心理的な溝を作り出し、しばしば、政治的な対立を激化させる。・・それが悲劇に発展することを防ぐためには、ステレオタイプ的な文化観を克服することが重要な課題になる」
(「おわりに」より)

つまり本書は、「日本人は実は個人主義だ」とか、「集団主義と個人主義のどちらが優れているか」とか、そういうことを言いたいのではなくて、「日本人はこう」「アメリカ人はこう」といった安易なステレオタイプ的文化論を唱えることに警鐘を鳴らしているわけです。
本書は、内容は学術的ながら、わかりやすく、明快な論理展開なので、非常に説得力があります。あまりに鮮やか過ぎて怖いくらいです。学生時代に読んで感銘を受けた「菊と刀」が、この誤った通説の元凶とされているのは、横っ腹に穴をあけられたようなショックなのですが、それでいて、このワクワク感はなんでしょう。学問の面白さというか、理性の力というか、知的議論というのはこういうものではないかという興奮を覚えます。

学校の国語の教科書に「批判的精神」という文章がありました。親や先生の言うことを素直に聞くのが良いことだと思っていた僕にとって、「疑う」ことを勧めるこの文章は、少なからず衝撃だったのです。もちろんこの「批判」は、反抗や不平不満ということではなく、物事を鵜呑みにするのではなく、理性的、合理的、また建設的に判断する力を養うことを勧めたものだったと思います。

本書は「日本人論」について、そのような批判的精神をもって検証を試みている刺激的な本です。