東京新聞12月20日朝刊「こちら特報部」に、哲学者の中島義道さんを取材した記事が載っていました。
「『真実』がない森友・加計議論」という見出しの記事です。(前文だけこちらで読めます)
この中で中島さんは、疑惑をめぐる国会での閣僚・官僚と野党の攻防について、
「哲学的に見れば、どちらにもこれっぽっちも『真実』はない」
と断じています。
「政権側は法律に違反している証拠がないから正しいのだと主張し、野党側は何とかしてぼろを出させたいと追求する。その力学があるだけだ」
法を至上とし、法に違反していなければよいというあり方に対して、
「そもそも法律とは、人間が愚かさを経験した末に合意した次善の策にすぎない」
と指摘しています。
こういう「あるべき論」からの論評は珍しかったので、大変興味深く読みました。
森友・加計疑惑の事実関係は置いといて、この指摘自体はとても的を得ていると僕は思います。
「法に違反しなければいい」というのは、社会の安定維持のために最低限のルールは守ってますというだけのことで、決して「あるべき姿」を満足しているわけではありませんよね。
法以前に、「あるべき姿」というものがあるはずなのです。
法は、その「あるべき姿」の一部が具現化、明示化されたもの。
そうでなくちゃ、「法案を審議する」ことなどできないでしょう。
法の上位概念があるからこそ、それに基づいて法案が良いのか悪いのか審議されるはず。
そうしてできた法には、理念もあれば限界もあるはず。
だからその法に基づいた国会での議論を「力学」だけでやられるとしたら、あまりに乱暴だと思うのです。
政治家は公僕。
そんなことは、もはや理想論でしかないのでしょうか。
あの人たちはいったい、何のためにあそこにいるのでしょうか。
翻って、僕はいったい、何のためにここにいるのか。
人のふり見て我身も振り返ります。
こちらは12月15日の東京新聞に掲載された僕の投稿
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