· 

なぜ喋ったことが全部記事にならないのか

ある人が嘆いていました。

「せっかくたくさん喋ったのに、記事これだけ?」

 

その人が言うには、メディアさんから最初に質問項目が来て、文書で返した。

その後、対面でいろいろ聞かれて、それを文字にしたものが送られてきて、またいろいろ返した。

出来上がった記事は(その人から見たら)そのごく一部だけだった。

・・ということのようです。

 

うーむ。

それはそうだろうなと思いつつ、「まあねえ、あちらさんもいろいろ都合があるんでしょうねえ」と応じましたが・・

画像:いらすとや

昔、テレビのローカルニュースに出た人が「あんだけ録っといて、映ったのはほんの一瞬」と言ってました。

その時は「テレビって失礼だね」という気持ちでしたが、今なら理由は薄々わかります。

 

コメントをいいように切り取られて意図と違う載せ方をされたり、報じたい方向に話を無理やり持って行くというのは「情報操作」に当たるので別として、取材時と掲載時で量の違いが生じるのは、やむを得ないというか、むしろ当然なのです。

 

それは自分の発した言葉、書いた文章は、よっぽど考えて出したものでない限り、最初は材料でしかないということです。

それは生のホウレンソウです。

それは選別され、洗われ、茹でられ、切られ、やっと「おひたし」という料理になります。

「あんなにカサがあったのに、茹でたらこんなに縮んだ」

と言っても、まあ、それはそういうものです。

あるいは、材料のうち一番いいところだけを使う高級料理。

 

作り手が何を作りたいかによって、材料の集め方、選び方、使い方は変わります。

むしろ、素材をそのまま垂れ流されるほうがよっぽど恐いと私は思います。

 

もう一つ、素材を加工する理由は、仮に素材を全部そのまま使ったとしても、意図が正しく伝わるとは限らないからです。

これについてはまた別の機会に。