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「喜嶋先生の静かな世界」の懐かしさ

森博嗣「喜嶋先生の静かな世界」講談社

 

 森博嗣のファンを標榜する知人が、「これはぜひ読みたいんですよ。いいらしいんで。」と言っていたのが本書です。なぜすぐに読まないのかと尋ねたら、文庫化されるのを待っているということでした。私も何気なしにネットでレビューを見てみたのですが、確かに満点がついています。つい興味が湧いて買ってしまいました。

 

 主人公は、大学で研究者を志す若者です。

 研究というのは、一般には決して派手な仕事ではないと思います。そんな研究者を主人公にした話がこれだけ高い評価を受けているというのは、どんな波乱に満ちたストーリーがあるのかと期待しながら読み進めたのですが、いつまでたっても特に大きな事件が起こるわけでもありません。一人の学生が研究者として成長していく様子が、実に淡々と描かれていくだけです。しかし不思議と次第に引き込まれていきました。

 

 読後感は今まで味わったことがないものでした。研究への思い、そして主人公に強い影響を与えた「喜嶋先生」への思いが、まるで自分の経験のように心の深いところに収まってきます。

 

 これは何だろうとよくよく考えてみると、自分の学生時代を綴ってくれているのだと思い当たりました。つけ忘れていた自分の日記を見るような懐かしさと切なさ。私自身は研究者になったわけではありませんが、それでも大事な探し物を見つけたような感覚に囚われました。

 

 中には登場人物たちが「喜嶋語録」と呼んでいる印象的な言葉が出てきますが、私のお気に入りは主人公と喜嶋先生のこんなやり取りです。

「この問題が解決したら、どうなるんですか?」

「もう少し難しい問題が把握できる」

 

 本学会(駐:日本音響学会)には理系の大学、大学院に進まれた方や、ずばり研究者という方も多いと思います。この本を読むと、学部での覚束ない(失礼!)卒業研究や大学院生活から、突然目の前が開く瞬間までもがリアルに蘇ってくるのではないかと思います。そして、喜嶋先生を「懐かしく」思えることでしょう。

 

 ちなみに冒頭の知人は、私に先を越されたので慌てて電子書籍を購入して読んでいるそうです。

 先に読んでゴメン。

 

2012年に日本音響学会誌の「コーヒーブレーク/私のすすめるこの一冊」コーナーに投稿