クリスチャンの恩人が病気で亡くなり、前夜式に参列した。
故人愛唱の賛美歌を皆で歌い、神に祈りをささげ、牧師の説教を聞く。
喪主の挨拶や故人を見送るなどの葬儀特有のことはあるが、基本的には、教会の日曜礼拝と同じ形である。
クリスチャンの葬儀は、神への礼拝なのだ。
礼拝だから、こうした前夜式や葬儀は、決して暗くない。
もちろん遺族は辛く悲しいに決まっているし、この世でもう会うことがないのは寂しい。
しかしそれで悲嘆に暮れることはない。
死は決して、終わりでも、永遠の別れでもないということを知っているからだ。
故人の魂が神の御国に行ったことを、事実として信じている。
故人が信仰を持ち、魂の救いを得て、神の恵みのうちに生涯を送ったことを、事実そうなのだと信じて、神に感謝する。
それが、クリスチャンの葬儀という礼拝だ。
夫君は、故人にこう言っていたという。
「先に神様の元で待っていてほしい。僕もいずれ行くから。」
気休めではない。
それはもう、堅くその通りに信じているのだ。
僕も、同じだ。
だから、また会えるのが楽しみだ。
楽しみだから、クリスチャンの葬儀は暗くない。
厳粛だが、希望に満ち溢れている。
本当に、そうなのだ。
信仰を持つ喜びをもっとも強く感じる、それがこうした葬儀のときである。
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よっちゃん (金曜日, 20 10月 2017 19:19)
私もまったく同じ思いであの〝礼拝〝に参列して、明るい気持ちで帰途に着きました。クリスチャンの葬儀はなんて希望に満ち溢れているのだろうと!でもしばらくは寂しくて涙がとまらなかったけれど。ご夫君の証しに慰められ、家に帰ってから、自分の夫にも、私の葬儀はこうしてね、と色々注文しておきました!!
岡崎道成 (土曜日, 21 10月 2017 07:40)
よっちゃんさん、コメントありがとうございます(当サイトへの初コメントです)。
ご家族を差し置いて僭越かと思ったのですが、夫君の挨拶に感動して出してしまいました。
でもよっちゃんさんは、もっとずっと後であることを望みます・・